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2022年12月8日木曜日

[Live Writing Review]2018/01/21《Zycos》at 町田ノイズ

『[Live Writing Review]2018/01/21《Zycos》at 町田ノイズ』


Kiyoshi Murakami
January 21, 2018
Machida; Zine; B5→A5; 6p.


*原文は縦書き
*原文に適宜微修正を加えた(平仮名→漢字/誤字の修正など)


■p.1(表紙はページにカウントしない)

ザイコス:第1部

 シンプルでスローなインプロから形成されてゆくグルーヴ。その高揚感の上昇角度が身体に適度な刺激と安心感を与える。
 インターバルの遊泳感は穏やかさと静謐さを浸透させてくる。
 ディープにうねるベースとシャープなドラミングのコンビネーションはアンダーグラウンドなにおいも運んでくる。

■p.2

 ツインドラムのセッションは息遣いをあわせて競技するアスリートのような、スリリングさと直接的な身体感覚を伝えてくる。尖った電子音が添える彩りは、コントラストの効いたモノクロームのようだ。

■p.3

ザイコス:第2部

 第2部から〈世田谷トリオ〉の高橋佑成氏が参加。しょっぱなから速いテンポで疾走していく。
 ラテン的な愉しさ。フランクなノリ。ダンス・フレンドリーな、フロア仕様ともいえる展開。パッションの充溢が完了したあとは、ボトムからせり上げていくベーシックなマナー。しかしそこにも随所に変化を加え、異和感も組み込んで作動していく。

■p.4

 スペ―シーな空間性。プリミティブなリズム感。いまいる空間の領域を内から外から押し広げてゆくような流れ。一音ごとに歩が進んでゆく感覚。研ぎ澄まされた音の役割が明確になっていく。振動の力強さがたくましい。
 ミニマルテクノにツインドラムのコンビネーション。音数を絞り、ユニークさと跳ねる瞬発力を並べて開示する。
 一転、メロウな流れ。トワイライトな街の光が舞い降りるようなムード。徐々にフリーな、開放的な道すじを辿り、きらめく音の断片が散らばり出す。それを「回収」

■p.5

して着地。心が帰る場所を示すように。
 ラスト曲“ランナー”。その名の通り、フィジカルな前進感覚を前面に出し、メンタルを鼓舞するようなかけ声が挿入される。〔陸上競技の〕トラックのコーナーを曲がるときのバランスのとりかたみたいな、リアルな、関節単位の動作性を楽しむような演奏。ゴールの充実感も。


● → 原版の画像(4点)


■2018/01/21(日)18:00~20:00 於:町田ノイズ *投げ銭制
《Zycos》
服部マサツグ(d/pad)
小森耕造(d/synth)
岩見継吾(b/synth)
ゲスト:高橋佑成(key)
https://twitter.com/machidanoise/status/952033076929904640


2018年1月21日
村上 潔[Kiyoshi Murakami]

[Review]《竹内直(ts)・蜂谷真紀(vo)》at 町田ノイズ(May 31, 2016)

2016/05/31《竹内直(ts)・蜂谷真紀(vo)》at 町田ノイズ[1]:前半のハイライトは長尺曲の“竜骨(キール)”。じっくりと、深層的な奥行きのある時間軸が構成されていく過程。生み出す主体はミニマムな楽器と声。その二人の織りなす関係性の密度が、この曲の世界観を体現する。

2016/05/31《竹内直(ts)・蜂谷真紀(vo)》at 町田ノイズ[2]:後半で印象的だったのは“The Travel with the Dead Man”。荒野を旅する孤独と郷愁が、一気に心を浸してくる。その感触は、深煎りの珈琲を喉に通したときの滑らかな苦みと甘さのよう。

2016/05/31《竹内直(ts)・蜂谷真紀(vo)》at 町田ノイズ[3]:ラストの“きみの宝物”は、まさに声とメッセージが直線的に体にぶつかってくる感覚。しかしそれは単線のベクトルではなく、その空間にいる人から人へと絶えず乱反射していく。店の外までも。この曲の趣旨の通りに。
[2016.06.06_00:20]

2016/05/31《竹内直(ts)・蜂谷真紀(vo)》at 町田ノイズ[4]:二人の演奏は、私たちを、荒野に、都市の雑踏に、暗い地下に、空の彼方に、まだ見ぬ安住の地に、連れていく。と同時に、この町田の4階建てビルの隅っこに身を寄せ合っていることがいかに素敵なことかを気づかせる。

2016/05/31《竹内直(ts)・蜂谷真紀(vo)》at 町田ノイズ[5]:私たちはどこにでも行けるし、何者にもなれるし、時間の海を潜っていける。彼らはそう教える。だが平日の夜にこうしてノイズで出会った私たちは、ただそれだけですでにつながっている、という事実の意味も刻印する。

2016/05/31《竹内直(ts)・蜂谷真紀(vo)》at 町田ノイズ[6]:ライブをやるには厳しい環境のなか、シンプルな楽器の組み合わせと創意工夫で発信された二人の音・声は、外縁が拡散されつつも、コアの強度と密度は研がれ、純度の高い状態で店内を飛び交い、外へ飛び出していった。



◇kiyoshi murakami(@travelinswallow)
3か月ぶりに町田ノイズのライブ。始まる前にジャークチキンサンドとアイスコーヒーで軽めのディナー。いま休憩時間で、かぼちゃのチーズケーキとホットコーヒーを補給。ライブはもちろん、よい流れで進んでいます。
[2016年5月31日19:55 https://twitter.com/travelinswallow/status/737598338069979136]


2016/05/31(火)19:00~20:30
at 町田ノイズ

竹内直(ts)
蜂谷真紀(vo)


2016年6月6日
村上 潔[Kiyoshi Murakami]

[Review] Mexico Trio + Asakawa Taihei Live at 'Coffee & Jazz' Machida Noise (March 19, 2016)

 力強さ、直線的な押し出し、駆動力。彼らの演奏からはまずそうしたポテンシャルが明確に読み取れる。しかし、それを構成する要素は、平面的ではない。重層的・立体的である。
 最も簡潔に図式化すると、3人の武骨な疾走感を、後方から浅川のピアノが静かに細やかにマネジメントする、というかたちになる。浅川のピアノは一貫して流麗であり、けっして主張しすぎない。全体の「力の総量」を調整する役割を果たしている。
 また、浅川のみならず、森田のSaxの「出し入れ」も同様の役割を担っているが、こちらは、そのタイミングと溜めにより、展開におけるアクセントの付与という別の大きな要件の所為を司ってもいる(したがってむしろ前面で牽引・制御を行なう立ち位置になる)。
 これにより、音全体が、エネルギーが、場の密度が、過剰にならない。たんに音の総量と重なりを調整しているのではなく、演者と演者同士の、そして演者側と聞き手側との間の、力の総量のバランスが、そこで調整されているのだ。
 とはいえ、これは「ほどよく」調整された無難な演奏ということを意味しない。手を離したら即大空へ飛んでいってしまう膨らんだ風船を、小指一本につないで歩いているような、スリリングなシチュエーションである。したがってそこには、開放感と移動性、そして最小限の自律的な秩序によって構成された自由さがある。
 特徴的だったのは、“食物連鎖”での、浅川によるめくるめくピアノソロだ。力のマネジメントを担っていた浅川が、すべてのリミッターを解除したかのように、一気に自らの内包する力を放出する姿と発される音の連なりは、まさに圧巻と評するよりほかなかった。
 収まりのよい安全な調整作動とは対極にある、自らが音と力の秩序を――時に自ら(作った砂の城を壊すように)崩す愉しさも享受しつつ――作っていくこの演奏の過程は、聞き手にとっても十分に、直接的に刺激的であり、自らがその「内」にいることを感じさせてくれるものだ。そこで聞き手は各人なりに、自らの「力への感受性(の臨界点)」を意識する経験をもつ。そのことによって、演者と聞き手総体、つまりその「場」に多数の自律的秩序が(並存的に)構成される。この状態こそが、多様性なるものを担保する条件となる。
 多様性は、一方で彼らの演奏曲のレパートリーがすでに象徴している。スタンダード・ナンバーである“スプリング・イズ・ヒア”――この時節にこの曲を聴けたことは文字通り感慨深かった――は、感傷的でありつつフレッシュさも強く感じさせていたし、レゲエ調の“食物連鎖”が醸す緩やかなおおらかさと生命感、そして代表曲“メキシコ”――店長の2度目のアンコールにより演奏され、最後にマックスのカタルシスをみなに与えてくれた――が撒き散らす強烈な越境性の匂いも、強く印象づけられた。しっかりと意味をもった自由なマッピング。テリトリーの枠の広さと、そのなかの行き来のフレキシブルさが、感じるたびに快かった。
 まとめよう。この4人は、演奏の技巧や音の良さもさることながら、こうした多様性を担保する条件である、「力の共存・作用のしかた/させかた」が非常に魅力的なグループである。そして、彼らの魅力的なパフォーマンスの土壌成分には、4人のなかでの信頼関係のみならず、彼らと〈ノイズ〉との信頼関係が、少なからず存在しているのではないかと想定される。その後者の信頼関係――もちろん、演者と店のスタッフとの個人的なものもあるが、むしろそれを超えたレベルの、構成された「場」としての〈ノイズ〉が主体となる関係――は、おそらく演奏や音を含めた力の調整において、安定性と逸脱可能性(自由さ)の両方を保障するものとして機能するだろう。
 冒険を承知であえて大きな枠組みを導入してみるならば、町田という街の環境、〈ノイズ〉という店=場の環境、〈ノイズ〉に集う人たちの多様さ、その人たちがもつ音楽への想い、料理の匂い、コーヒーの匂い、店外の音。そうしたすべてが、幾重にも重なって、浸食しあうことなく機能することで、「アンバランスなのにその場限りの秩序がある」見えない状況が生み出されるのではないだろうか。それが、4人による力の認識に、その調整に、そして自由さを追求する感情に影響し、「音」として表出してくるのではないか。
 よって、「〈ノイズ〉でライブをする」ということ自体が、(おそらく今後何度やったとしても)彼らにとっても聞き手にとっても、まさに特別な経験であり、そこで――自覚されるかどうかはともあれ――「共有」した力の秩序とその自由さの感覚は、その場にいた一人一人の身体と記憶に刻み込まれるはずである。それは、還元的な視点で考えれば〈ノイズ〉という場自体の経験の蓄積であり、場がもつ人の感受性に働きかける能力を向上させることになる。音=人=場が有機的につながり、長期的に機能するということ。それを実感し、確信できた夜だった。


2016/03/19(土)18:00~20:00
at 町田ノイズ
メキシコトリオ
・森田修史(Sax)
・岩見継吾(Bass)
・永田真毅(Drums)
with 浅川太平(Pf)


2016年3月27日
村上 潔[Kiyoshi Murakami]

2022年12月7日水曜日

1996年夏の〈町田ノイズ〉――境界の空間

1┃私が最も足しげく〈町田ノイズ〉@machidanoise に通った時期は、おそらく1996年の夏休みだったと思う。おおよそランチのピークが過ぎた13時すぎ頃に店に入り、Bランチを食べ、アイスコーヒーを飲みつつ研究論文を読み込んでいた。当時の自分にとっては、「思考する」のに最も適した場だったのだ。→
[https://twitter.com/travelinswallow/status/1089432911441358848]

2┃もちろん、つねに/ただ「思考」していたわけではない。ふと無心になれる時間も必要だった。それは思考に挟み込まれるように、一定のリズムで断続的に訪れることが理想とされる時間だ。ノイズの空間性と、暗さと、ジャズの「鳴り」は、それを自然に可能にしてくれていた。つまりそういうことだ。→
[https://twitter.com/travelinswallow/status/1089432912880009216]

3┃当時厨房を司っていた(と私が記憶している)のは、2人の女性だった。そのうち一人はいまの店長である。2人は外見のタイプは異なったが、いずれもクールな佇まいで、店の雰囲気を体現していたと言い表して差し支えない存在だった。おもしろかったのは、2人が盛るライスの量が一律に違ったことだ。→
[https://twitter.com/travelinswallow/status/1089432914054459392]

4┃その「差」が何に起因したものだったのかは当時もいまもわからないし、永遠に謎としておいてよいと思っている。そういう、特に言語化しない点も含めて、ノイズの体験というのは私の身体に沁み込んでいるものだ。日常と非日常の間の、簡単に跨げる淡い境界線上に位置する空白地帯。それがノイズ。→
[https://twitter.com/travelinswallow/status/1089432915396591616]

5┃ノイズを出て、〈Tahara〉でCDをチェックしたりしたのち、ジョルナから外に出る。すると眩しい光と、熱気や湿気、行き交う車と人の騒音が、たちまち自分に纏わりついてくる。それは現実に戻る感覚というよりも、むしろ「仮」の世界に入っていくような趣があった。ノイズは世界を反転させていた。▲
[https://twitter.com/travelinswallow/status/1089432916793253889]

2019年1月27日
村上 潔[Kiyoshi Murakami]

[another home: 20]町田ノイズを想って

■another home
〈旅を語る人 no.20〉
村上潔


 アナザー・ホーム。その言葉を見て瞬時に頭に浮かんだのは、町田ノイズのことだ。本当のところ、私の心のなかではもうホームと言っていい存在なのだけれど、実質としては違うから、やっぱりアナザーが正しい。
 町田ノイズの開業が1980年。私が町田に住み始めたのが1979年。ほとんど同じタイミングで育ち始めた。私が初めてノイズに入ったのはおそらく1996年で、それ以来、私はノイズとともにある。2004年に京都に来て、随分と離れた存在になってしまったけれど、町田を想うとき真っ先に目に浮かぶのは、ノイズの薄暗い空間だった。
 東京に行く用事があれば、何はなくともノイズに駆けつける。カウンターに座り、Aランチを食べ、アイスコーヒーを飲み、シフォンケーキを食べ、店長と話す。タイミングが合えばジャズライヴを楽しむ。とにかくあの空間に身を置きたい。においと味と音を吸収したい。その気持ちは、時が経つほど強くなる。


むらかみ・きよし
1976年、横浜市生まれ。町田市育ち。立命館大学生存学研究センター客員研究員。現代女性思想・運動史。
http://www.arsvi.com/w/mk02.htm


◇村上潔 2018 「[another home: 20]町田ノイズを想って」,writin' room編『New World Service』Vol.22(Apr. 2018),HiFi Cafe *2018年4月25日発行

町田ノイズ35周年

 2015年11月21日(土)昼12時半すぎ。現在、町田ノイズのカウンター席でこれを書いています。
 昨晩はこの同じカウンター席から、cro-magnonのライブを観たのでした。目の前での演奏。格別でした。心身が軽くなって、余分な力が抜けた感じ。演者も、聴衆も、もちろんスタッフも、自然な「ホーム」感を醸成し、共有していて、本当に気持ちのよい2時間+αでした。オープンでありながら親密さをたたえている。アイデンティティを強く意識させることはないが、ある一定の共通の感覚を確認できる。そういう空間でした。そしてそれは、ライブという特別なときに限らず、いつもの・ふだんのノイズに流れている時間のありかたでもあります。
 ノイズは「ジャズが流れる喫茶店」であり、「ジャズ喫茶」ではありません。ティーン女子向けのファッションビルのいちばん奥にあり、このビルの中に唯一存在する「うす暗い」空間です。ジャズ愛好者も来ますが、お客さんはショップ店員やサラリーマンや学生や主婦が多いです。したがって、共通の趣味をもつ人だけが集まるところではありません。かなり雑多な空間です。仕事や勉強をしている人もいれば、商談/打ち合わせをしている人もいれば、恋バナをしている人もいます。一人で黙ってただ煙草をふかしている人も、ひたすらビールを飲んでいる人も。でもバックにはいつもジャズが流れていて、目を上げればレコードのジャケットが目に入る。それはどんな人にも共通の条件。ジャズが好きな人も興味ゼロな人も、オシャレを求める人もアングラ趣向の人も、この空間に身を置き、時間を過ごしている、ただそれだけでどこか、つながっているのです。不思議な感覚です。
 誰にも干渉されない。でも人といっしょにいる安心感を感じる。「あ、あの人、ジャークチキンライス食べてる、おいしそうだな、あっちにしとけばよかったかな、まあいいか、Aランチおいしかったし、でも次はジャークキチン食べよう……」そんなことが頭に浮かび、そして次の瞬間には消えていきます。いつもは大嫌いな煙草のにおいも、ノイズで嗅ぐと不思議と自然に受け入れられたり。「ああ、子どもの頃は煙草のにおいを嗅ぐとオトナの世界に触れたようでうれしい気持ちになっていたなあ……」なんてことを思い返したり。ふとノスタルジーにも向かいつつ、でもセンチメンタルというよりはクールであって。とりとめもない薄い記憶と思考が、頭をよぎっては去っていきます。
 ライブを聴いている最中も、そういう状態でした。音と、煙草のにおいと、ほのかに漂ってくる料理のにおいと、うす暗い灯りと。それが、耳と、鼻と、目と、頭と、心と、体を、ぐるぐる循環して、自然と全体のバランスが調和している状態。自分の内面と外の世界の境界が曖昧になっていく感覚。それが心地よく。
 アイスコーヒーの氷が溶けて、カランと音がしたら、いまの現実に戻る合図。また町田の街の喧騒に入っていきます。こんなことが、ずっと繰り返されてきました。これからもずっと繰り返したいと、ただそう思います。こうした空間は、一人の人の意識や努力や才能だけでは作れません。街と、たくさんの人々と、そして十分な時間が作るものです。その要素を手放してはいけない、そう思います。町田が町田であり続けるために。
 なにはともあれ、町田ノイズの35周年をお祝いします。

2015年11月24日
村上 潔[Kiyoshi Murakami]