2022年12月7日水曜日

[コーヒールンバ 4]体験としての珈琲

 私にとってもっとも大きな「珈琲体験」は、神保町〈ミロンガ・ヌオーバ〉であった。二〇代前半まで、コーヒーを飲むといえば、都心の通りの角を曲がる度に現れるセルフ式チェーン店に入ることを意味していた。神保町が好きで日常的に通ってはいたが、コーヒーの優先順位は低かった。老舗と言われる喫茶店にも何店か入ってみたが、その味は記憶に残っていない。
 だが〈ミロンガ〉は違った。これが「珈琲」の味か、と思った。最初は美味しいのかどうかもわからなかったが、それがこれまで飲んできたコーヒーとは違うものだという印象は強烈に刻印された。そして重要なことは、〈ミロンガ〉の空間全体が「珈琲体験」だったということだ。建物、看板、内装、机、椅子、そして〈DENON〉の机埋め込み式ターンテーブル。それらすべてが「味」を構成していた。
 最初に〈ハイファイカフェ〉で珈琲を口にしたとき、瞬時に「〈ミロンガ〉と同じだ」と感じた。厳密には同じはずはない。だが、確実にそう感じた。そして吉川さんと話をするようになって、吉川さんがかつて〈ミロンガ〉に通っていたことを知ったのだった。


むらかみきよし
立命館大学大学院非常勤講師。現代女性思想・運動史研究。著書に『主婦と労働のもつれ――その争点と運動』(洛北出版)など。


◇村上潔 2013 「[コーヒールンバ 4]体験としての珈琲」,writin' room編『New World Service』Vol.4(May 2013),HiFi Cafe *2013年5月発行